ここは、いろいろな人の居場所。緩やかにつながる心地よさ~わおん~

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サポートチームGの市原さんに無理をお願いして、
中学生たちに、被災された方のお話を
じっくり伺う時間を設定させていただくことが出来た。

蛍光のタスキ服を来ていらっしゃるのが市原さん。
東北「志」援キャラバン 047
ご自宅は神奈川県横浜市、毎週、東松島と横浜を往復されている。
本当に頭が下がる。
地元の方々が主体的にバザー運営をする流れが出来たと
私の手を握りしめて喜んでいらっしゃった。
支援という言葉が示すとおり、支え、応援するその目標は、
被災者を「囲い込む」ことではなく、
今の状態から次に進んでいただく、そのためのお手伝いであろう。
まさに、私のNPOが、NEET状態の若者の自立のお手伝いをすることと、
根本的な思いは同じである。
故に、市原さんの喜びは非常に共感できた。

話を本題に。
その日の夜、中学生にお話をしてくださった斉藤さん。
東北「志」援キャラバン 093

斉藤さんご自身、津波に流されたのだが、
斉藤さんの言葉を借りるなら「たまたま」救われた、とのこと。
その言葉は、一緒に自宅で津波にのみ込まれた奥様、お母様が
お亡くなりになったことで、重みを持って伝わってきた。
たまたま、なんだ。
たまたま、生きている。
ということは、たまたま、亡くなった、とも言える。
どういう基準で、どういう理由で、などということを
想像することさえ拒絶するほどの生と死の理由。

ご自身の状況、お知り合いの状況をご説明されるなかで、
とにかく「たまたま・・・だったので、」の連呼である。

ご自身の「生」を確信されるまでの過程をしっかり伺った。
そのお話は、多少記憶力に自身がなくなりつつある私の脳みそであっても、
直接、姿勢を正して真正面から伺っただけに、
3週間近く経つが、忘れられない。

東北「志」援キャラバン 092

そして斉藤さんから私たちに発せられたメッセージ。

「被災後、沢山の方々からの援助によって本当に救われた。
その中で、何より一番私の支えになっていることは、
皆さんの心、気持ちです。今回もこうやって岐阜から
中学生が何人も来てくれたことなど、嬉しい限りです。
これからも、私たちのことを忘れずにいてくれたら、
本当に助かります。よろしくお願いします。」

斉藤さんは被災者であり遺族である。
被災から7ヶ月、一人になると
とにかく涙があふれるそうだ。

この日、当時のことを詳細に話してくださったが、
語らなくても一人になれば自然と思い出してしまう状態。
むしろこうやって皆にその当時のことを聞いてもらうほうが
どことなく救われる、と仰った。
東北「志」援キャラバン 099

伺う方も心重くなる部分があることは事実だが、
それを押しても、気持ちに寄り添うこと、想いを寄せることが、
少しでもその人たちの「生」につながるのであれば、
それが私たちのできる行為のひとつではないだろうか。

その思いを新たにし、10月10日、岐阜に帰りついた。

松島海岸は、おだやかであった。
東北「志」援キャラバン 104




ようやく今回の訪問記を書き終えました。
実は、これから寒さが厳しい時期になってくると
岐阜から車で東北に赴くことは控えたほうがよい、と
訪問に関しては少々消極的になっています。
むしろ2度東北に行けたことに感謝していると言った方が良いでしょうか。
そう言いながらも、急に行くことにするかもしれません、、、。

ずっと、毎日のように被災地のことが頭に浮かんできます。
訪問する前も後も、毎日のように。ただ、その内容が変化しました。
行く前に感じていた「日本に住む一人として、これは実際に行き、
何かを感じて、行動につなげていかねば!」が、
訪問したことによって少し見えてきた気がします。

この国で起きたこの出来事に、境目はないということを
明確に意識できるようになりました。
放射能のことは、ほとんどすべての日本人の関心事ですが、
私はそこではなく(気にしてはいますが)、
被災後に避難生活を送っている人たちが、実は岐阜にも
相当数いるという事実に対し、出来ることがあるのではないかと
考えています。
岐阜県内に約400名強の避難者がいらっしゃいます。
この人たちの喪失感、孤独感、不安感、といった気持ちに寄り添うこと、
地域に住む者として、きちんと向き合っていきたいです。

以上、お付き合いありがとうございました。
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2011.10.28 / Top↑
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